「義姉上様」

夜の帳が下りかけた、薄い闇の広がる空を眺めていると不意に声をかけられた。
この声は、と自身の中で答えを出してから振り返る。
少々不安げな面持ちで佇んでいるのは半年前に弟と祝言を挙げた義妹だった。
兄弟が増えるのは不安もあるがやはり嬉しいのが先立っていたので、随分と自分でもはしゃいでいたのを覚えている。

「賊がこちらへ向かっているそうです」

普通ならば恐怖と焦りが交じり合った声で告げられるものも、彼女は物静かにごく当たり前のように告げた。
そこが彼女の性格を物語っている所だと、思っている。
視線を外へと移す。
眼下に広がるのは広大な木々と山、そして、薄墨染めに染まっていく空が広がる。
おそらく賊もその森の中を静かに、そして確実に向かってきているのだろう。

「迎え撃つ手立てを、考えましょうか」

ここで臆しては戦に出て行った夫や兄、弟達の足を引っ張る事になる。
武家に生まれた時から覚悟は決めていた事だった。
何があろうと、諦めるという選択肢は自身の中では無かった。
ただ襲撃にあう、という選択肢も無かった。城にはそれなりに備えはあった。
それで、持ちこたえさせるか、逆に討つという手もある。
確かに戦に出ている人数に比べれば少ないが、負ける気は毛頭無い。

「いざとなれば、私が討って出ます」

強い意志をその眼に称え、義妹である友が申し出る。
さすが、あの弟が見初めただけある、と思えばそれで終わってしまうが、彼女は彼女なりに覚悟を決めているのかもしれない。
年頃の女子達に比べれば、背丈も高くしっかりした身体つきだ。
自然と期待してしまいそうだが、彼女はまだ弟と夫婦での生活を送らなければならない。
それなのに、戦にて負傷などなどの、重荷を背負わせたくは無い。

「友、あまり抱えこまないように。

私とて隆家様の妻であり、元春の姉です。武の嗜みが無いとでも?」

「いえ、そういうわけでは…」
「薙刀でも、用意しましょうか。他の者は、天守に集めておきましょう」

こちらに傾いているであろう状況を、このような事でひっくり返すわけにはいかない。
腕の見せ所かもしれない。
策士として名を馳せている父の血を、接いでいるのだから、と自身に言い聞かせ城に居る者が集まっているであろう、広間へと向かった。


  *  *  *  *  *  *  *  


飛んでいく景色と頬を切る風を感じながら馬を駆けさる。
それを感じる時間すら刹那すら、惜しい。
早鐘のように打つ心の臓がやけに大きく聞こえるのはおそらく気のせいではないはずだ。
草木を踏み、馬具と甲冑の当たる音、さらには各々の手にした武具の音によってかき消されてはいるのだろう。
数日前に降った雨によって辺りは、かすかに湿り気を帯びている。
自然とはこうも偉大なものか・と実感する。
駆けていくにしても、多少空気が湿っていた方が、喉が張りつかなくて楽だ。
必ず向う・と告げた義弟が気にかかる。
傷を負ってはいないか、無事にこちらへ向えるか、何より、間に合うか。
最悪の事態を予想してしまった自身に嫌悪しつつ、それらの思考を振り払うかのように頭を軽く振る。
そんな事を考えるために今駆けているのではない。
最悪の場合にならない為に、させない為に今こうして駆けているのだ。
最後まで、諦めるわけにはいかない。
ふと、視界が開けた。

「城だ…」

眼前に佇むは目的の城である。

「行くぞ!」

鬨の声を上げさせ、さらに速度をあげて駆け抜ける。
鼻につくのは何かが燃えているにおい。
城からは行く筋かの細い煙が上がっているのが目に入った。

その瞬間に、何かが弾けた。


  *  *  *  *  *  *  *  


「まさか城に火をつけるとは…」

広間にて戦況の報告を受けつつ、策を弄する。
裏門からも突破が来るかと思ったが、それはなかった。
賊が躍起になっているのか、それともあえて正面から来たかったのか、推し量る事は多々あるが、今は一刻一秒でも現状を持ちこたえさせる事が先決だ。
城にいた女中を始め、戦慣れしていない者達は天守へと移動させた。
すぐに本丸には越させないようにそれなりの手立てはした。
小さいながらも二の丸まではある。時間を稼ぐ事を前提に、策を弄した。

「無理だと思ったらすぐに退きなさい」

報告に来る者達にそう伝える。
恐らく兄達はこのことに気付いているだろう。
ならば、一つ二つの部隊をこちらに向わせているはずだ。
それまでにこの城を落とさせるわけにはいかない。
せめて、本丸までの侵入を食い止めなくてはならない。

「義姉上様、行かれますか?」

友の静かな声で、自身を落ち着かせることが出来る。
彼女のはこの様な時でも寛大だった。
その寛大さを、時折羨ましく思う。

「友はわかっているのね。私がこれから、どうするかという事を」

薄っすらと笑みを浮かべれば友はゆっくりと目を伏せ、頭を垂れる。
手にしている薙刀を、自然と強く握り締める。
覚悟は、きっと昔からしていたのだ。


  *  *  *  *  *  *  *  


二の丸門から煙が燻っているのがはっきりと見えた。
それどころか城からも煙が数か所、細く立ち上ぼっている。
カッと熱が刹那にして巡るかのような錯覚と、抑えきれず否定しようもない殺気が生まれた。
チリチリと己の殺気で総毛立つのと、切り裂くように流れてゆく風で自我を手繰り寄せる。
もし、姉や妻に何かあったら自身を抑える事は出来ないだろう。
家族は大切だ。
自身が生きてきたほとんどの時間を共有してきたからこそわかる…確かな直感。
時折長兄や姉が口にする、己の覚えていない頃の話。
その時の表情はひどく穏やかなものだったからこそ…。

「……友」

半年前に祝言をあげた、新たな家族。
今までの家族とは少し違う…己自身の手で守らねばならぬ者。
愛するとかそういう事は今でもよくわからないが、失いたくないと強く願う。
長兄にそう告げると、それでいい・と、母のような柔らかな笑みで返された。
ヒトのやり方を真似るよりも、元春のやり方で彼女と共に歩みなさい・と。
彼女は常に凛としていた。それでいて聡明だった。
静かで、言葉は少ないが、支えとなる人だと、感じ取れていた。
見回りから帰った時でも、戦から帰った後でも、彼女は変わらず待っていてくれた。
変わらず接してくれた。
どんなに血に塗れていようが、気性が荒ぶっていようが、彼女は出迎えてくれた。
周りが怖れを抱くかのように、古参の者達すら声をかけるのを躊躇するような時ですら…。
鬼が人に戻る瞬間を目にするのは珍しい事ですね、と。
鈴の音のような凛としていて、それでいて暖かみのある声が心地好かった。
彼女という支えによって俺は活かされている。

「…っ」

息が詰まるような苦しさが、突如駆け抜けるがそれどころではない。
間に合わせねば、助けなくては。
あの人が、兄弟と同じような感覚を覚えて、それでもどこか違うあの人が言っていたからこそ…。


「後悔か杞憂か、選ぶべきではない。常に杞憂であるよう最善を尽くしなさい」


鬼と称された彼は、長兄とそう変わらない歳にも関わらずその発する言葉には力があった。
強い意志の籠った眼をして、幾つもの戦場を経験したにしては細身の体躯で。
それでも前線で二槍を振い、紅蓮の鬼と称されていた、あの人。
あれは言霊なのだろうか、と思う程に。
耳に届く馬の呼吸が乱れた。
そろそろ限界なのかもしれないが、城も間近に迫ってきた。
戦場にいる上で聞くあらゆる音が押し寄せてくる。そして改めて実感する。

 ここは戦場なのだ。

 そして―戦場に、鬼はつきものだ。

「…たぎる」

鬼吉川の名を継ぐ事になったのも因果かもしれない。
今の己は正しく…鬼そのものだと、己を取り巻く空気が変わった事へある種の核心を抱きつつ、獲物を構えた。
ずしっと、獲物の重さが己を駆り立てる。
アノ感覚が鮮明に甦ってくるかのようだった。
何度戦場へ出ても忘れる事が出来ない、離れる事のない、人を斬る感覚。

 これは、戦なのだ。

木の焼ける匂いと、鉄錆に似た匂いが鼻につく。
短く息を吐いた後、緩やかに面をあげる。

 いつでも狩れるように。






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